高校野球に関するおすすめ著書を紹介

書籍

高校野球には名将と言われる名監督が多数存在します。
高校野球はプロと違いトーナメントでの1本勝負であり、一度も負ける事が許されません。
また、9回3アウトを取るまで何が起こるか分からないサバイバルゲームが高校野球の魅力でもあります。

このような環境のなかで、見た目では普通のプレイをしていても内には様々な作戦と心理戦が働き、普段からの指導方法にも様々な特徴があります。

今回は、野球に関する著書の中でも高校野球の指導者が書きあげた本を紹介していきます。

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小倉清一郎

 
高校野球指導歴41年。ウラも表も知り尽くした「野球博士」小倉清一郎氏は、選手の能力を一瞬で見抜く眼力、対戦相手の特徴と弱点を見抜く天才的な眼力の持ち主だった。

「野球は考えるスポーツ」と断言し、横浜高校を全国屈指の名門に育て上げた。甲子園で勝つだけでなく、プロ野球界で活躍する選手も多数輩出。「小倉メモ」抜きには、日本野球は語れない。

「小倉メモ」は高校野球界では、アマチュア球界の「野村ノート」と言われ、メモに記された内容は、あの野村克也氏も認めるほどの内容だった。

甲子園62勝、優勝3度を誇る「甲子園の達人」が40年間書き綴った戦略・育成「秘密の書」を著書の中で大公開!

また、教え子50人をプロに送り込こんだ、練習方法、育成方法や、あの松坂大輔との知られざるエピソードも大公開されています。

小倉清一郎(おぐら・きよいちろう)
1944年6月16日生
神奈川県横浜市出身
横浜高から東農大に進み、社会人野球の三菱自動車川崎、河合楽器でプレー。ポジションはキャッチャー。
選手を引退後は、東海大一高(現・東海大翔洋高=静岡)、横浜商高、横浜高のコーチ、監督、部長を歴任。
特に横浜高校では、渡辺監督の右腕として甲子園常連校へと成長させ50名以上の教え子をプロに排出させた。
その3校とも甲子園に出場させ、名参謀、名伯楽と呼ばれる。
現在は「野球伝道師」として、全国を野球行脚している。
関連著書

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機動破壊 健大高崎高校

「機動破壊」というスローガンを掲げ、圧倒的な機動力で高校野球界に革命をもたらした健大高崎。その走塁・盗塁の全貌がいま初めて明らかに!

4年間で3度甲子園に出場し、2012年には選抜ベスト4の成績で16盗塁。
2014年には夏の甲子園ベスト8の成績で26盗塁を記録。
これは、大正10年に作られた和歌山中の29盗塁に迫る記録。実に1試合平均6以上の盗塁を決めたことになる。

圧倒的な機動力でダイヤモンドを縦横無尽に駆け回り、甲子園のスタンドを沸かせるだけではなく、プロのスカウトをも唸らせた健大高崎ナイン。

では、「機動破壊」はいかにして生まれ、育まれてきたのか?
なぜそこまで走れて、なおかつ勝てるのか?
走塁に着目した理由や、走塁に対する考え方、数ある走塁・盗塁の基本から高等テクニック、相手投手のクセから球種の読み方、練習法を紹介。

さらには西武ライオンズからドラフト1位で指名された甲子園優勝投手である前橋育英高校の高橋光成投手の攻略法にいたるまで、健大高崎の監督・コーチが具体的に「機動破壊」の全貌を惜しげもなく披露します。

高校野球界に震撼を与え続ける、驚異の機動力野球のすべてが記されています。

関連著書

田尻賢誉(たじり・まさたか)
1975年12月31日生
兵庫県出身
ラジオ局勤務を経てスポーツジャーナリストとして活躍。
高校野球では徹底した現場取材で著書多数。
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高嶋仁 智辯和歌山高校

2018年に100回大会を迎えた夏の甲子園。
長い歴史の中で、数々の名勝負、名選手、そして名監督が生まれてきたが、その甲子園において、誰よりも多く勝利を収めている監督が、智辯和歌山高校・高嶋仁監督(現・名誉監督)である。

智辯学園や智辯和歌山を率い、春夏の甲子園出場38回、通算勝利68勝はいずれも歴代最多であり、自身は70歳の古希を迎えてもなおグラウンドに立ち続け、2018年夏を最後に惜しまれつつ勇退した高校野球界きっての名将である。

指導歴は48年となり、最初に赴任した奈良・智辯学園で指導者としての礎を築き「平成の王者」と言わしめた智辯和歌山での隆盛時代。

代名詞となった仁王立ち、かげりが見え始めた中での謹慎事件。グラウンドを去る決断と葛藤しながら貫き通した信念が描かれています。

高嶋仁(たかしまひとし)
1946年5月30日生
長崎県出身
海星(長崎)では外野手として夏の甲子園に2回出場。日本体育大学卒業後、70年に智辯学園(奈良)のコーチに就任。72年から同校監督。80年から智辯和歌山の監督に就くと、春1回、夏2回の甲子園優勝を果たす。甲子園出場38回、甲子園通算68勝はいずれも歴代最多。2018年夏限りで監督を勇退し、同校および智辯学園の名誉監督に就任。
関連著書

迫田穆成監督 広島商業

かつて「広商野球」といえば、スモールベースボールの代名詞であった。
選手、監督として広商野球を経験し、広商イズムを継承している迫田穆成(現・如水館監督)の野球観を高校野球取材歴20年のスポーツジャーナリスト田尻賢誉が「74の法則」としてまとめました。

さらに、迫田穆成監督の実弟で、同じく広商野球の継承者である迫田守昭(現・広島新庄監督)の勝負哲学も収録。
高校野球で本塁打が量産される時代だからこそ忘れてはならないことがある。
力がなくても、どう戦うのか、どう工夫するのか!?
高校野球の魅力とレベルアップのヒントに満ちた一冊です。

迫田穆成(さこだ・よしあき)
1939年7月3日生
広島県出身
広島商の選手として57年夏の甲子園優勝。
6年に同校のコーチ、67年に監督就任。93年から如水館の監督として指導にあたる。弟の迫田守昭は現在、広島新庄の監督をしており毎年、広島県大会では兄弟対決が見物となっている。
 
関連著書

小倉全由監督 日大三高

 
日大三高を率いて夏の甲子園で優勝2回。
選手との絆を育て、勝利を導く名将・小倉全由監督のチームづくりの心得を、スポーツジャーナリスト田尻賢誉が、75のセオリーとしてまとめた。

選手とともに寮で過ごし、グラウンドで汗と涙を流すうちに、自然と本物の家族以上の関係になる。「小倉監督を男にするんだ」と選手に言わしめる、小倉流の育成術を伝える。

現在指導者の方、これから学生を指導する人には必見の本です。

小倉全由(おぐら まさよし)
1957年4月10日生
千葉県出身
日本大学第三高等学校教諭、同校硬式野球部監督。
日大三高を経て日本大学に進学。卒業後の81年、関東一高野球部監督に就任。
87年春の甲子園大会で準優勝。88年に退任するが92年に復帰。97年より母校・日大三高野球部監督に就任。2001年夏の甲子園大会で優勝、同校を初の夏の大会全国制覇に導く。10年春の大会で準優勝、11年夏の大会で優勝。春夏を通じて甲子園出場通算16回

関連著書

中井哲之監督 広陵高校

野村祐輔、中村奨成ら多くのプロ野球を育てた高校野球指導者が語る指導論。

勝つことだけにこだわるのは、教育者としてやはり寂しく甲子園に行くより大切なことがある。負け惜しみではなく、それは人間を磨くことだ。

中井監督は、ウソをつかないし、選手たちとホンネで向き合う。
選手たちの人間を磨くことに懸命になる。

100人を超える部員を抱えながら平等主義を貫き、選手たちの人格を認め自主性を重んじる
中井野球が目指す高校野球とは・・・
多くのプロ野球選手になる人材を育てながら、一方で勝利至上主義を排し、「真の高校野球」実践にこだわる。

部員には「ありがとう」と「ゴメンな」を心から言える選手になれるよう厳しく指導。
また、「まっすぐ生きる」ことを常に求める。

さらに、選手たちだけのミーティング、選手の投票でメンバーを決めるなど、部員の自主性を重んじる。
大所帯の寮生活では、学年の垣根を超えたふれあいの機会をもうけるなど、他の伝統校、強豪校とはひと味もふた味も異なった部活動を行っている。
その中井野球の神髄を本書では余すところなく解き明かす。
広陵高校関係者はもちろん、高校野球ファンや自己啓発本としてもおすすめです。

中井哲之(なかい・てつゆき)
1962年7月6日生
広島県出身
広陵高3年の80年(昭和55年)、一番・内野手として選抜ベスト4、選手権ベスト8。
大阪商大を経て86年(昭和61)に母校に赴任し、野球部副部長兼コーチに。90年(平成2)4月に27歳で監督に就任し、翌91年の選抜で母校に65年ぶりの優勝をもたらす。さらに2003年(平成15)の選抜で2度目の優勝。
関連著書

その他の著書

創成館高校 稙田龍生監督著書

苦戦しても、敗戦しない!

金属バット全盛の今だからこそ、イレギュラーマットや連続27アウトノックでアウトを取るための実戦的守備を鍛え上げる。
藤原恭大選手、根尾昂選手らを擁して「史上最強世代」と呼ばれた大阪桐蔭に、年間唯一の黒星を付けた日本一の守備力で頂点を狙う、超ディフェンシブベースボール論。

著者は、以下のように述べている。
「稙田龍生の野球」の幹をなし、社会人時代から追求し続けてきた「守り勝つ野球」をさらに突き詰めていった結果、創成館=ディフェンシブベースボールというチームのスタイルが徐々に形となり、その後に九州大会連続出場、さらには8年間で6度の甲子園出場にも繋がっていったのだと断言していい。

また、創成館が神宮大会や甲子園で結果を残していくたびに、私の野球観や組織づくりに対して多くの関心を寄せられるようになった。そこで今回は、私自身の指導論および指導手法を書籍にまとめて伝えることによって、野球はもちろん他競技の指導者に対して、指導力の向上と選手の競技力向上を提議していこうと考えた。

稙田龍生(わさだ・たつお)
1964年生
大分県出身
別府大附属高校(現・明豊)卒業後は、4年間のブランクを経て社会人野球の九州三菱自動車へ。内野手として活躍し3年目に主将、5年目に選手兼コーチとなり、その後1999年に35歳で監督に。
日本選手権には2度出場してベスト8にも導いた。その後2008年秋から創成館の監督に就任。
幻となった2020年のセンバツも含め、これまで春夏6度の甲子園出場を果たし、2018年はベスト8。
2017年の明治神宮大会では、「史上最強世代」と呼ばれた大阪桐蔭に年間唯一の黒星を付けて準優勝にも輝いた。
明徳義塾高校 馬淵史郎監督

高校野球界きっての名将である明徳義塾高校・馬淵史郎監督は、高校野球、甲子園の酸いも甘いも知り尽くした監督として知られる。

そんな名将が高校野球の現在から未来、さらには自らの人生、野球哲学、戦術、育成について100の質問に答える。

夏の選手権大会が第100回を迎える記念すべき年にふさわしい、名将のすべてが明かされる1冊。豊富な経験に裏打ちされた内容は野球のみならずビジネスや日頃の生活にも生きるはずです。

馬淵史郎(まぶちしろう)
1955年11月28日生
愛媛県八幡浜市大島出身
高校と大学では内野手としてプレイしたが、甲子園大会の出場経験はなし。
大学卒業後は松山に帰郷。2社で就業した後、1982年に兵庫県の警備会社・阿部企業に入社し、野球部のコーチ兼マネージャーに就任。
翌1983年より監督を務め、1986年には社会人野球日本選手権大会にて準優勝に輝く。その後再び松山に戻って職に就くが、翌1987年より明徳義塾高校野球部でコーチを務めつつ、高等学校社会科の教職員免許を取得。1990年に明徳義塾高校野球部の監督に就任。
甲子園通算30回出場し、1992年夏の甲子園では当時、石川県星稜高校に在籍していた松井秀喜を5打席連続敬遠するなど話題となった。
専大松戸 持丸修一監督

かつて“鬼の持丸”と呼ばれた男が、約50年に及ぶ指導者人生で辿り着いたのは、「選手たちを信じる」ことだった。
「高校野球は子どもがやるもの」という信念のもと、2015年夏はほぼノーサインで戦国千葉を制覇。
竜ケ崎一、藤代、常総学院、専大松戸、率いた4校すべてを甲子園に導いた名将の、信頼を育む指導論。

持丸監督は著書の中で、このように述べています。
ありがたいことに、指導した4校すべてで甲子園に出場することができた。
本書では、竜ヶ崎一、藤代、常総学院、専大松戸におけるチーム作りを振り返りながら、高校生の心を育むために実践してきた指導法や、生きるうえで大事にしてきた格言や考え方を紹介していきたい。
若い人たちからすれば「時代が違う話でしょう」と感じることもあるかもしれないが、長く生きてきた年長者の言葉として、受け止めてもらえるとありがたく思う。

持丸修一(モチマルシュウイチ)
1948年4月17日生
茨城県出身
竜ヶ崎一の3年夏に甲子園出場。國學院大卒業後に母校のコーチとなり、1975年9月には27歳で監督就任。その後1990年、91年夏に2年連続甲子園に出場。1996年に藤代へ異動となり、監督として2001年、03年のセンバツへと導く。2003年9月には常総学院の監督に就任し、2005年センバツ、2006年、07年夏の甲子園出場を果たす。
そして2007年12月から専大松戸の監督となり、2015年夏に学校初となる甲子園出場を遂げる。これで竜ヶ崎一、藤代、常総学院、専大松戸と率いた4校すべてで甲子園出場を果たした。教え子として、多くのアマチュア指導者を輩出。また美馬学(ロッテ)や上沢直之(日本ハム)、高橋礼(ソフトバンク)ほか、球界を代表する選手をプロの世界にも数多く送り出している。
花咲徳栄高校 岩井隆監督

 

「自立した人間は、今後の人生で壁にぶつかってもきっと乗り越えられる」
「将来、組織やチームの中心となる人材になってほしい」

 

2017年、なぜ花咲徳栄は夏の甲子園を制することができたのか。
勝因の一つに岩井監督が常々話してきた、選手の「自立」がある。学校の部活動の一貫、教育の一貫として、野球部が存在する。有名私立校、有名強豪校とは一線を画したアプローチで選手を育てながら、それでも近年プロ野球選手も多数輩出するのはなぜか。

自分たちで想像し自分たちで決断して行動する。岩井流 選手の育て方を1冊に収録。

岩井隆( いわいたかし)
1970年1月29日生
埼玉県川口市出身
桐光学園高、東北福祉大では内野手としてプレー。
卒業後に花咲徳栄高に社会科教諭として赴任し、野球部のコーチに就任。
2000年10月に当時の監督、稲垣人司氏が逝去すると、後任として同校野球部の監督に就任。指揮を執って1年目の2001年夏には初の甲子園出場へと導く。以降、2017年夏まで甲子園に春夏通算9回出場。2017年夏の甲子園で、埼玉県勢初の日本一に輝く。
教え子には現ロッテの根元俊一、オリックス・若月健矢、西武・愛斗、広島・髙橋昂也、オリックス・岡﨑大輔などがいる
 
 県立相模原高校 佐相眞澄監督

横浜、東海大相模、慶應義塾、桐光学園のことを、神奈川の「四天王」と位置付けている。
四天王を倒さなければ、甲子園は見えてこない。

 

私立の強打線を抑えるのは難しいので、ある程度の失点は覚悟したうえで、打ち勝つしかない。
私が日ごろから大事にしているのが、正しい努力をすることだ。バットを振るにしても、やみくもに振るのと、課題をわかったうえで振るのでは、1本1本の重みが変わってくる。そのために伝え続けているのが、「骨(コツ)」の重要性である。
スポーツ推薦なし、学業との両立、平日練習2時間半の中でどのような練習をするのか具体的に記されている。
佐相眞澄(さそう・ますみ)
1958年8月31日生
神奈川県相模原市出身。現、県立相模原高等学校教諭
法政二高から日本体育大へ進学。強打の外野手として大学4年時に明治神宮大会優勝を果たした。卒業後は相模原市立新町中から大沢中、東林中に赴任。大沢中では1992年に全日本少年軟式野球大会3位。
東林中では1998年の全国中学校軟式野球大会で3位など数々の成果を挙げた。2005年に川崎北高の監督に就任すると県立校ながら、打ち勝つ野球で2007年秋の県大会でベスト4。2012年に県立相模原高に着任。2014年夏にベスト8、同年秋にベスト4、2015年春は準優勝を遂げ、同校初の関東大会出場を果たす。2018年夏は準々決勝で敗れるも、
東海大相模を9回まで8対6とリードした。2019年夏はノーシードから勝ち上がり、準々決勝では横浜を打撃戦のすえに下し、
創部初のベスト4進出。名門校を倒した県立校として、大きな話題を呼んだ。

明豊高校 川崎絢平監督

川崎絢平(かわさき・じゅんぺい)
1982年生
和歌山県出身
智辯和歌山時代は3年連続で夏の甲子園に出場し、1年夏(97年)には全国制覇を経験。
3年夏(99年)はベスト4。その後は立命館大学に進み好守の遊撃手として活躍。
卒業後は和歌山箕島球友会でも全日本クラブ選手権優勝などの実績を残す。
2012年秋より明豊高校の監督に就任し、15年夏に甲子園出場。17年夏の甲子園ではベスト8、19年センバツではベスト4進出を果たした。
県立岐阜商業高校 鍛治舍巧監督(前、秀岳館高校監督)

ことばは、人を動かし、組織を動かし、自ら動くきっかけにもなり得る。
監督就任3年で熊本・秀岳館高校を甲子園3季連続ベスト4に、そして監督就任わずか2年で母校・県立岐阜商業高校を第92回選抜高校野球大会に導いた男の格言集。
指導者・ビジネスマン&ウーマン、必携の本です。
鍛治舍巧(かじしゃ・たくみ)
1951年5月2日生
岐阜県出身
県立岐阜商業高校野球部監督。前・秀岳館高校野球部監督。前・中九州短期大学副学長兼国際経済論教授。日本野球連盟近畿地区連盟最高顧問。岐阜県立岐阜商業高校でエースとして1969(昭和44)年の春のセンバツに出場。早稲田大学に進学後、第2回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、卒業後は松下電器産業(現・パナソニック)に入社。1981(昭和56)年に現役を引退。1986(昭和61)年に松下電器野球部の監督に就任、1991(平成3)年まで務める。社業では入社以来29年間人事部門の採用・労政トップを経て広報・宣伝部門へ。2006(平成18)年役員、常務役員、専務役員として宣伝・広報・社会文化・CSRなどの職務を歴任。2009年(平成21)年、(株)ガンバ大阪担当取締役にも就任。1985(昭和60)年~2010(平成22)年までNHKの野球解説者として高校野球の実況放送に携わり、人気を博す。2010(平成22)年9月、経団連広報功労・奨励賞受賞。

常総学院高校 (故)木内幸男

 

取手二高、常総学院を率い、人情味溢れる語りと独創的な采配で甲子園を沸かした名将・木内幸男監督。
木内氏の名言&箴言から、子供たちへの指導、選手の育成・起用、そして読み・采配までをその「語録」をキーワードに当時の試合経過、チームそして選手の状況を振り返りながら検証。決してエリート集団ではないチームがいかにして全国制覇をなしえたのか?「木内マジック」の秘密に迫る。
木内幸男(きうちゆきお)
1931年7月12日生
茨城県土浦市出身
土浦一では主将を務め、卒業後コーチ、監督となる。57年取手二に移り、監督生活25年目の77年夏に甲子園初出場。84年夏に茨城県勢初の全国制覇を果たす。84年秋から常総学院で指揮。2001年春、03年夏に優勝、1987年夏、94年春は準優勝に導く。甲子園には春夏通算20度出場し、歴代3位の40勝(17敗)をマークした。2003年夏で監督を勇退。



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